夢二郷土美術館
館長 小嶋光信
夢二の生誕日には毎年お祝いの催しを当館で開催していますが、今年もコロナ禍でオミクロン株や派生種のウイルスで日本が世界最悪の感染者数になり、再び行動制限になってひょっとして開催できない等のアクシデントがあるかもしれない…と、小嶋ひろみ館長代理が考えたのでしょう、私に講演の依頼が来ました。
門前の小僧ではないですが、父と骨董屋さんとのやり取りから本物と偽物の見分け方や、鑑定の表と裏、古美術の世界は何と偽物の多いものか…など沢山の日本画や陶器、刀などを見せられてそれらのやり取りを聞いているうちに何となく覚えていました。
私の母が墓参り等で東京から津山に里帰りするときは中学生くらいまではいつも私が一緒に年2回、毎年連れていかれたので、松田基さんが夢二を集めていることや西大寺にあった夢二郷土美術館などをあまり意識なく見せてもらっていました。
しかし、本当に夢二の作品が素晴らしいと感じたのは、娘(現館長代理)が生まれたときで、義父の松田基はよほどうれしかったのか幼女が人形と一緒に寝ている夢二の枕屏風(<ねたかねなんだか>)を孫の枕元に置くようになり、そのときからです。仕事から帰って娘の寝顔とともに毎日夢二の枕屏風を見ていましたが、その枕屏風に「ねたかねなんだか まくらにとへば まくら ものゆた ねたとゆた」という古謡が書いてあり、なんとも可愛らしいほのぼのとした雰囲気でした。
仕事の方は、そのころはまだ旧三井銀行にいましたが、昭和48年のオイルショックで岡山にフェリーやタクシー、トラックを運行している旧両備運輸(現両備HD)が大赤字になり、その再建のために常務として帰ってきてほしいという要請で、その再建に四苦八苦しているとき、更に昭和50年、過激な労務運動で疲弊している旧岡山タクシー(現岡山両備タクシー)の社長を義祖父から引き継ぎ、これまた何とも言えぬ酷い労働運動で暗礁に乗り上げて心が折れそうになっていた際、夢二の<日本男児>という作品にかかれた画賛が妙に心に響きました。
「どんなに悲しいときにでも 日本男児はなきませぬ 泣くのは涙ばかりです」
そうなんです、日本男児は泣けないのです。私は30才で2つの会社の再建という重荷を背負わされましたが、泣くに泣けず、誰にも相談できずひたすらもがいていたとき、この夢二の作品と詩が励ましてくれ、乗り切ったことから現在があると思っています。
両社の再建がある程度軌道にのったころ、毎週日曜日の夕食は義父の家ですき焼きを食べるのが恒例となっていて、夕食のたびに「バス事業はどうなるのか?」、「夢二生誕100周年の記念事業は何が良いか?」という矢継ぎ早の質問で、のどに牛肉を詰まらせながら「バスは何とかします」「夢二は西大寺を美術館にしても岡山では花は咲きません」と答えると、キラッと目が光って、「ならば夢二をどうするのか?」というので、西大寺鐡道の出発駅だった西大寺バスターミナルにあった夢二の美術館を終点の後楽園駅の跡地に移転することを提案しました。後楽園駅は旭川にかかる橋を渡ってすぐ目の前が岡山後楽園で、観光ルートに入る可能性があったからです。
夢二生誕100年の記念として西大寺鐡道の後楽園駅跡地に美術館ができることになり、さて、美術館の名称をどうするか?ですが、松田基さんから「夢二郷土美術館」ではどうかと相談を受けました。私はスッキリ、短く分かりやすく郷土の二文字を取って「夢二美術館」で良いのではと言いましたが、義父は「郷土の2文字があるから良いのだ」と詳しい理由は述べませんでした。今思えば、終生、故郷を懐かしんだ夢二への思いと、夢二の生家がある故郷岡山にある美術館という点から日本各地にある他の夢二関係の美術館との違いが分かる「郷土」の二文字は必要であったと思います。
お陰さまで1975年に山陽新幹線の博多までの全通もあり、夢二郷土美術館と夢二生家(現夢二生家記念館)と少年山荘は特に東京や大阪の夢二ファンに大人気で、大いに賑わいました。
義父が亡くなって、3代目の館長になりましたが、両備グループでは歴代グループのトップが館長を務めることになっています。なかでも、重要な任務は美術館の経営が厳しいので、無給のボランティアとしてその経営責任を持つことと、周年行事としての5年、10年刻みの生誕記念展覧会のテーマを決めることです。
私は生誕120年の記念展が最初の仕事でしたが、夢二芸術の全てを見てもらいたいという願いを込めて夢二生誕地・岡山の夢二郷土美術館と、夢二がこよなく愛した榛名山の近くにある竹久夢二伊香保記念館の木暮亨理事長のご好意で二つの故郷ともいうべき2館の代表的な作品を本邦初の「岡山、伊香保 二つのふるさとから」と題して全国の高島屋で開催することにしました。
夢二郷土美術館の作品は<立田姫>や<一力>など大作の肉筆画が中心ですが、松田基さんと並ぶコレクターであった岩波書店の元専務・長田幹雄さん(故人)は本の装幀類や半襟などのデザインなどの作品が中心でそれらを収蔵した竹久夢二伊香保記念館との共演によって夢二が詩に、絵画に、デザインに、工芸にと世界でも稀に見るマルチアーティストだったことが分かるのです。
夢二は故郷・岡山を「泣きたいくらいに懐かしい」、「花のお江戸じゃ夢二とよばれ故郷に帰ればへのへの茂次郎」と評し、広々とした千町平野の邑久で育ち、優しいお母さんや美しい松香姉さんに可愛がられて過ごした幼少期が夢二の詩や夢二美人の伏線になっていると思います。
竹久夢二伊香保記念館の伊香保や榛名山は夢二が晩年第二の故郷としてこよなく愛し、「榛名山美術研究所」の建設を夢見ていた地でもあります。夢二は、若くして亡くなっても生涯ただ一人愛し続けた彦乃さんを「山」と呼び、自分を「川」と言ったと伝わりますが、榛名の地にはその面影を感じます。
昭和、大正も遠くなりにけり…ではないですが、夢二ファンも世代変わりし、また、日本の教育が日本の美術や芸術をほとんど教えていないということで、何とか子どもたちにも夢二ファンになってもらいたいという願いから、120周年には猫をサブテーマとして、猫のテーマのグッズも開発しました。
夢二の描いたいろいろな猫を集め没後出版された「豆本 猫」(版木を当館で所蔵)などで夢二が描写する猫たちを見て、バリバリの犬派の私が、猫の可愛さが分かったことが和歌山電鐵で三毛猫の「たま駅長」が生まれる契機となったのです。もし私が120年で夢二の猫をとり上げなかったら、「たま駅長」は生まれていなかったと思います。
生誕125年には「ふたつのふるさと、ふたつのコレクション」と題して、松田基コレクションと長田幹雄コレクションの競演によって、120年展で言い尽くせなかった夢二を表現しました。生誕130年展ではミシュランに夢二郷土美術館が掲載され、「日本のロートレック、ムンク」と評されたことを手掛かりに「夢二とロートレック―東西のベル・エポックに生きた二人の偉才」をテーマに企画しました。
日本では西洋絵画ばかりが偏重され日本の美術や芸術が軽んじられる傾向がありますが、江戸末期のパリ万博で徳川幕府や薩摩・佐賀両藩から出品された浮世絵や磁器、精緻な工芸品等々は珍しさもあって人々を驚かせ、ジャポニスムの誕生・一大ムーブメントを巻き起こして印象派が生まれる契機にもなったことから、印象派好きのファンに夢二作品に振り向いていただきたいという思いで催しました。
この130年展から小嶋ひろみ館長代理が、実質的に展覧会の業務を取り仕切ってくれるようになったのですが、ちょうどそのころ館長代理が当館の公式Facebookを開設して、そこに入ってきた一報が有難いことに夢二がロサンゼルスでお世話になった宮武東洋さんという世界的な写真家のお孫さんであるアラン・ミヤタケさんが夢二の「西海岸の裸婦」の油彩画を故郷の岡山に帰してあげたいという話でした。改めて故郷の力というのは大きいものだと感じました。
夢二の誕生日に夢二に思いをはせてお話しさせていただいて、夢二の故郷・岡山と夢二がこれからももっと深く、広く夢二芸術を後世へと伝道していかねばと痛感しました。