両備グループ代表
小嶋光信
今日はお忙しい中、ようこそ西大寺鐵道フォーラムにお越しいただき、心から御礼申し上げます。
西大寺鐵道は1910年、明治43年7月31日にこの西大寺(岡山市)の観音院で創立総会が開かれ、昭和37年まで52年間みなさまのご愛顧をいただき、その使命を終え、両備バスにその後を託しました。西大寺鐵道は、「けえべん」と呼ばれ、今でも私たちの心の中でガタゴトガタゴトという列車の音とともに生き続けています。
昭和25年に国鉄赤穂線の工事が始まり、当初は西大寺を迂回して西大寺鐵道とは競合しないとの予想が、経済発展に伴い財田(現在の東岡山駅)まで西大寺からほぼ併走することが決まり、賢明な先輩たちはその使命を終わることを予見しました。本来なら新線に反対や条件闘争をするところですが、敢えて西大寺の発展のために気持ちよく国鉄赤穂線敷設に賛成し、そして補償も求めず、その座を明け渡す決意をしたのです。
そこで昭和30年、両備バスと合併し、両備バスの西大寺鐵道線として、昭和37年国鉄赤穂線の開業に呼応して閉業しました。
この地域を思う心、補償を求めぬ潔さに、正に両備グループの経営理念である忠恕(おもいやり)の心が生きていると感激しました。
フォーラムオープニングで、100周年を記念して社員の有志で結成した両備バンド「オルケスタ・デ・ブルースプリングス」が演奏し、両備バスのガイドさんたちが歌ってくれた「知らない人にもこんにちは」のCMソングで一斉を風靡したように、両備バスが今日の企業グループの基礎を築いてくれました。その後マイカー時代となり、バスや電車の公共交通は、饅頭のアンコが抜けたように、一番利用者の多い成人がマイカーに移り、だんだん、じり貧の状態になることが昭和40年代後半に入ると予見されました。昭和50年代には、西大寺鐵道の時のように、電車やバスという公共交通事業をどうするかが経営の一大関心事になったのです。みのもんたさんの「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ)で昨年岡山を代表するCMソングと言われた「街は青春」は、そんな中で、25年前私が今後の両備グループは運輸交通に加え、まちづくり、地域づくりにグループの軸足を移していくという想いを歌詞にしていただいたものです。
両備グループは、昭和40年代の中頃より必死に多角化をして今日の運輸交通部門、情報部門、生活関連部門という3つのコアを持つ58社・7,000人超、年商1,450億円の企業グループになっていったのです。
私が両備バスの社長になり、グループの代表になった10年前、公共交通は規制緩和が行われ、案の定多くの企業が倒れ、また路線が急減しました。今回は軽便からバスに転換するというような代替の出来る話ではないのです。顧客が逸走し、不採算事業だから止めてしまうということは、地域の交通弱者であるおじいちゃんや、おばあちゃんや子供たちの足を奪うことになるからです。地方は足のないゴーストタウンになってしまいます。
両備をこれまでの企業に育てていただいたのは地域のみなさまであり、公共交通の鉄道とバスなのです。
そこで私は、両備としてこの100年のご恩返しに、少子高齢化と環境問題という次の時代に必要なこの公共交通を、地方に残す努力をすることを決意しました。
規制緩和は、成長産業には是非しなくてはならない政治判断ですが、地方の公共交通のように成熟しきって、衰退を始めた事業の維持には命取りです。すでに成長する東京圏と衰退する地方では、同じ手法は取れない日本になっているのです。
しかし、いくらこんなことを言っても、所詮、既得権を擁護する業界人のエゴとしか思われない風潮だったので、敢えて火中の栗を拾って、和歌山電鉄と中国バスの再生を決意したのです。地方の苦衷を理解していただき、こうすれば地方の公共交通を残すことが出来ることを、両備の経営のノウハウで身を持って示す努力をしているのです。お陰様でスーパー駅長のたまちゃんの活躍もあり、これらの再生が一つのモデルになり、ご当局の賢明な努力で公有民営や、親方日の丸の悪い経営体質をつくった補助金にも経営努力を促すインセンティブが導入されました。適正利益も認めない、赤字補填を前提にした補助金政策では、地方の公共交通の再建はできません。公有民営などの新しい再生スキームがいるのです。今後は失地回復と将来の夢をつくる財源をどう確保するかで、色々素晴らしい政治家のみなさんや将来を憂いる有能なご当局に提案を続けていきます。
今、西大寺では第26回全国都市緑化おかやまフェアが行われています。折角の全国フェアが、両備グループの母なる西大寺の地で行われるので、それに呼応して、両備バスの西大寺バスターミナルのリニューアルとともに西大寺鐵道展や中国を代表する范曽(はんそう)画家の范曽美術館特別開館、そしてこのフォーラムを開催することにしました。
改めてバスターミナルを見直してみると、創業者の松田与三郎翁の銅像が雨だれで汚れていたり、雷に打たれて枯れた松は放置されたまま、池も涸れていました。自転車置き場がなく、乱雑におかれていたりと、大変申し訳ない状況でしたが、水戸岡デザインで見違えるように綺麗に、明るくなったと思います。
今後は「けえべん」の気動車の中に昔を忍ぶギャラリーを作るとともに、今は営業所の事務所として使っている西大寺鐵道の本店を改装し、西大寺鐵道記念館にしていきたいと思っています。
みなさんの心に残る「けえべん」の思い出を、ただの思い出だけにしないで、西大寺の発展に、またグループの発展のバネにしていきたいと思っています。