岡山藩郡代 津田永忠顕彰会 会長
小嶋光信
現在の「豊かな岡山」、「教育県・岡山」の基礎をつくったのは、江戸時代前期の岡山藩主・池田光政公、綱政公の二君に仕えた岡山藩士・津田永忠の偉業の一つである約1,900町歩の沖新田干拓と閑谷学校であると言われている。
当時天下に並ぶものなき「土木巧者」でもあった郡代の津田永忠は、領民に夢を与えるために、敢えて当時の技術では無理であると言われていた旭川と吉井川に挟まれた地域の新田開発を百間川の開削と百間川の河口部に造った唐樋(からひ:高度な排水機構)によって実現し、世界のモンスーン地帯では最大の沖新田干拓を成功させた。
治水学の大家でもある陽明学者・熊沢蕃山が、「大きな河川に挟まれた地域の干拓は、大洪水を引き起こす禁じ手」と大反対をしたのを押しのけて、当時の最先端の唐樋の技術をもって可能とした。蕃山が反対した理由は、満潮時に山から下りてくる大水が満潮(海水)により行く手を塞がれて洪水が起こるためなのだが、唐樋を閉めてその大水を河口に造った貯水池・大水尾(おおみお)に溜めて干潮時に排水することで大洪水を防いだ。
近年、新しい可動堰(せき)が造られた時に壊されたが、当時の河川技術者がこれだけの土木遺産を壊すのは忍びないということで、綺麗に解体して河口の底に沈めて保管してあった。
この度、岡山河川事務所のご厚意で、百間川河口水門の増築記念として唐樋の一部を復元していただいた。
そのご厚意に心から感謝して、顕彰会と岡山市民を代表して岡山河川事務所へ感謝状をお贈りした。